LOGIN結月内親王にとって、「一人で出かける」という言葉ほど、意味の曖昧なものはなかった。
もちろん、一人で歩いた経験ならある。
宮邸の庭を散歩することもあるし、廊下を移動するときに誰も横を歩いていないことだってある。
けれど、それは本当の意味で一人ではない。
少し離れたところには必ず誰かがいる。
外へ出れば警護担当者がいるし、訪問先では職員が待っている。車に乗れば運転手がいて、目的地へ着けば迎える人がいる。
予定表には、その日の行動が分単位で記されている。
だから結月は十九年間、「一人で出かける」ということが、具体的にはどんな感覚なのか知らなかった。
そして今日。
「では、ここからお願いします」
黒川沙耶が言った。
午前九時二十七分。
都内の駅から少し離れた歩道。
結月はベージュのコートに白いスニーカー、大学生活用に用意されたトートバッグを肩へ掛けて立っていた。
髪はいつもと分け目を変え、黒縁の眼鏡をかけている。
鏡で見ても、完全な別人とは思えない。
ただ、公務中の結月内親王とはかなり印象が違っていた。
「ここから、というのは」
「駅へ入り、指定した大学最寄り駅まで移動してください。その途中で一度乗り換えます。到着後は駅前の書店へ入り、指定された本を一冊購入。そのあとカフェで十五分過ごし、こちらからの連絡を待ってください」
「黒川さんは?」
「見える範囲にはいません」
結月が目を瞬いた。
「本当に?」
「完全に一人にはできません。複数名で周囲から警護します。ただし、結衣さんからはなるべく見えない位置を取ります」
「つまり」
「一人で行動しているつもりで動いてください」
結月は思わず周囲を見渡した。
駅へ向かう会社員。
自転車で通り過ぎる人。
買い物袋を下げた年配の女性。
どこに警護担当者がいるのか分からない。
「もう配置されているのですか」
「はい」
「どなたです?」
「教えません」
「一人くらい」
「教えません」
「けちですね」
「訓練ですので」
相変わらず融通が利かない。
だが、結月は少し嬉しかった。
「では、本当に一人で行ってきます」
「気をつけてください」
「はい」
「何かあったときは、大学生活用の端末から指定番号へ連絡を」
「分かりました」
「それから」
「まだありますか」
「あります。知らない人についていかない。人の少ない場所へ勝手に入らない。予定外の移動をしない。写真撮影を頼まれても、なるべく顔が残る形では応じない。誰かに正体を尋ねられた場合は——」
「黒川さん」
「何でしょう」
「私は幼児ではありません」
「幼児に申し上げるより多い注意事項があります」
「……そうですか」
「そうです」
結月は少しだけ肩を落とした。
「では、行ってきます」
「はい」
歩き始める。
十歩。
二十歩。
三十歩。
振り返った。
沙耶はいない。
「……本当にいない」
思わず声が出た。
もちろん、どこかから見ている。
頭では分かっている。
それでも、自分の周囲に誰もいないように見える。
そのことが、妙に落ち着かなかった。
同時に。
少しだけ楽しかった。
◇
駅へ入る。
前回の訓練で一度経験しているため、今日は比較的順調だった。
交通系ICカードを改札機へ触れさせる。
軽い電子音。
ゲートが開く。
「……よし」
小さく呟いた。
以前なら、この程度でも感動していた。
今日は感動こそしたものの、声に出さずに済んだ。
進歩である。
少なくとも本人はそう思っていた。
案内表示を確認する。
目的の路線。
方面。
乗り換え駅。
昨日の夜、何度も地図を見た。
今日は迷わない。
ホームへ降りると、ちょうど電車が入ってきた。
結月は少し緊張しながら列へ並ぶ。
周囲の人々はスマートフォンを見たり、イヤホンをつけたり、眠そうな顔で立っていたりする。
誰も自分を見ていない。
その事実が不思議だった。
結月はこれまで、公の場所へ出れば必ず視線を感じてきた。
カメラ。
関係者。
警護担当者。
通りすがりに気づく人。
ところが今は、隣に立つ男性も前にいる女性も、結月の存在などまったく気にしていない。
ただの乗客の一人。
それが嬉しかった。
電車が到着する。
人の流れに従って乗る。
空席はなかった。
結月は吊り革を握った。
電車が動き出した瞬間、身体が少し傾く。
「あっ」
隣の女性へぶつかりかけた。
「すみません」
「大丈夫です」
それだけ。
会話は終わった。
相手はすぐスマートフォンへ視線を戻す。
結月も姿勢を整えた。
なるほど。
立って乗る電車では、発車時に少し足を踏ん張る必要があるらしい。
また一つ学んだ。
車内広告を眺める。
資格講座。
旅行。
化粧品。
新作映画。
大学生向けの就職情報。
どれも、公用車からではじっくり見る機会がなかったものばかりだ。
前に座っている高校生くらいの少女二人が、楽しそうに話している。
「昨日さ、結局三時まで通話してた」
「馬鹿じゃん。今日一限なのに」
「だって向こうが切らないんだもん」
「いや、それ絶対脈ありじゃん」
「ないって。普通にゲームしてただけ」
「男女で深夜三時まで二人でゲームしてて何もないわけないでしょ」
結月は思わず聞き耳を立てた。
いけない。
人の会話を盗み聞きするのは品がよくない。
そう思うのに、内容が気になる。
深夜三時まで二人で通話。
恋愛の可能性。
これはかなり重要な青春情報ではないだろうか。
「でもさ、あいつ誰にでも優しいから」
「それ一番面倒なやつ」
「でしょ?」
結月は心の中で頷いた。
分かる。
漫画でもよくある。
誰にでも優しい男性は、本人に悪気がなくても周囲を振り回すのだ。
結月がかなり真剣に聞いていると、少女の一人と目が合った。
まずい。
結月は慌てて視線を逸らした。
窓を見る。
黒いガラスに、自分の顔が映っている。
少し赤い。
「……人の恋愛話を聞いてはいけませんね」
小さく呟いた。
すると隣に立っていた会社員らしい男性が、一瞬こちらを見た。
結月はさらに恥ずかしくなった。
独り言も控えるべきらしい。
◇
乗り換え駅。
ここが今日の最初の難所だった。
平日の午前とはいえ、人が多い。
案内表示も多い。
前回は一度通った場所だが、今日は人の流れが違って見えた。
「ええと……」
立ち止まりそうになり、思い直す。
駅の通路の中央で止まると邪魔になる。
前回、沙耶から注意された。
結月は壁際へ移動し、案内板を確認した。
目的の路線は右。
その先。
階段を上がる。
さらに通路。
「こちらですね」
歩き出す。
数分後。
結月は、まったく知らない改札の前に立っていた。
「……違いますね」
どう考えても違う。
指定された路線名がどこにもない。
結月はスマートフォンで地図を開く。
現在地を見る。
少し黙った。
完全に反対方向へ進んでいた。
「どうしてでしょう」
理由は単純だった。
途中で見た案内表示を一つ読み違えたのである。
戻ればよい。
それだけのことだ。
でも、ここで少し不安になった。
黒川はどこにいるのだろう。
警護担当者は、自分が間違った方向へ行ったことに気づいているはずだ。
助けに来ない。
当然だ。
これは訓練なのだから。
結月は一度深呼吸した。
「大丈夫です」
誰に言うでもなく呟く。
戻る。
分からなければ聞けばいい。
母も言った。
困ったときは人に頼る。
結月は近くにいた駅員へ声をかけた。
「申し訳ありません。こちらの路線へ乗り換えたいのですが、どちらへ向かえばよろしいでしょうか」
駅員は少しも驚かず、丁寧に道順を説明してくれた。
「ありがとうございます」
今度こそ正しい方向へ進む。
数分後、目的のホームへ到着した。
結月は時計を見る。
予定より七分遅れ。
「七分……」
本番なら、友人を待たせるかもしれない。
少し落ち込む。
でも、昨日よりはよかった。
今日は自分で間違いに気づき、自分で誰かに聞き、自分で戻った。
誰も助けに来なかった。
いや、正確には。
助けが必要になる前に、自分で解決できた。
その事実は、小さな自信になった。
◇
目的の駅へ到着したのは、予定より九分遅れだった。
結月は改札を出て、駅前へ向かう。
ここから書店まで徒歩五分。
地図は確認済み。
道も単純だ。
今度こそ迷わない。
駅前には大学生らしい若者が多かった。
近くに複数の大学があるらしい。
グループで歩く人。
一人でイヤホンをつけている人。
カフェの前で待ち合わせをしている人。
結月は、その一人一人をつい見てしまう。
もうすぐ自分もこの中へ入る。
本当に?
まだ、少し信じられない。
書店へ入る。
指定された本は、大学生活に関する一般的なガイドブックだった。
棚から取る。
レジへ並ぶ。
支払い。
今回はセルフレジではない。
「袋はご利用ですか」
店員に聞かれる。
一瞬だけ緊張する。
前回なら「ご厚意に感謝します」と答えたかもしれない。
「大丈夫です」
自然に言えた。
店員は「ありがとうございます」と答える。
それだけ。
結月は本をトートバッグへ入れ、店を出た。
思わず小さく笑った。
「できました」
今度は独り言をかなり小さくした。
◇
次はカフェ。
ここで十五分過ごす。
店内は比較的空いていた。
結月はカウンターへ並んだ。
メニューを見る。
難しい。
名前だけでは味が想像できないものがいくつもある。
後ろに人が並んでいる。
長く迷うのはよくない。
「ご注文をどうぞ」
店員に言われる。
「では、こちらのカフェラテを」
「サイズは?」
来た。
結月は一瞬固まった。
サイズ。
表示されている。
三種類。
ただし、普段自分が使う表現とは違う。
「一番小さいものでお願いします」
「はい」
何とか乗り切った。
「ホットとアイス、どちらにしますか」
「ホットで」
「店内でお召し上がりですか」
「はい」
「お名前をお願いします」
結月の心臓が跳ねた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
結月。
そう答えそうになった。
「……結衣です」
「結衣様ですね」
店員は何も気づかない。
当然だ。
結月は支払いを済ませ、受け取り口へ移動した。
数分後。
「結衣様、カフェラテお待たせしました」
呼ばれた。
「はい」
その瞬間。
妙な感覚があった。
水瀬結衣。
その名前で呼ばれた。
誰も自分を知らない場所で。
誰も頭を下げない。
誰も「殿下」と呼ばない。
ただ注文した飲み物を受け取る客として、名前を呼ばれた。
「ありがとうございます」
カップを受け取る。
席へ向かう。
窓際の一人席。
結月は座った。
そして。
何もしなかった。
十五分。
ただ待つ。
それが訓練内容だった。
最初は何をすればよいのか分からなかった。
いつもなら、待ち時間にも誰かが予定を伝えに来る。
資料を読むこともある。
次の行動を確認することもある。
今日は何もない。
だから結月は、カフェラテを飲みながら窓の外を眺めた。
歩道を人が行き交っている。
学生。
会社員。
母親と小さな子供。
宅配便の車。
自転車。
すべてが勝手に動いている。
自分のためではない。
当たり前なのに、それが新鮮だった。
ふと。
結月は店内を見回した。
警護担当者らしい人が見当たらない。
本当に?
この空間に、誰もいないのではないか。
もちろんそんなはずはない。
それでも。
今だけは。
本当に一人でいるような気がした。
結月はカップを両手で包んだ。
「……自由って」
声に出しかけて、やめる。
自由って、少し寂しい。
思っていたのとは違う感想だった。
誰も話しかけない。
誰も次の予定を教えてくれない。
何をするか、自分で決めなければならない。
間違えても、自分で戻らなければならない。
たった数時間の訓練で、それを少しだけ知った。
同時に。
自由って、面白い。
次に何が起きるか分からない。
道を間違えるかもしれない。
誰かに助けてもらうかもしれない。
知らない店へ入るかもしれない。
それ全部が、自分で選んだ結果になる。
結月は窓の外を見ながら、自然に笑っていた。
◇
十五分後。
大学生活用のスマートフォンが震えた。
沙耶からだった。
『予定終了。店を出て、右へ五十メートル進んでください』
結月は少し残念に思った。
もう終わりか。
カップを片づけ、店を出る。
指定された場所へ向かう。
角を曲がると、沙耶が立っていた。
「お疲れさまでした」
「黒川さん」
「はい」
「どこにいたのですか」
「言えません」
「カフェにも?」
「いました」
「本当に?」
「はい」
結月は店を振り返る。
「まったく分かりませんでした」
「そのための訓練です」
「少し悔しいです」
「なぜです?」
「見つけたかったので」
「目的が違います」
沙耶は手元の端末を見る。
「乗り換えで一度経路を間違えましたね」
「見ていたのですか」
「当然です」
「助けてくださらなかった」
「助けが必要な状況ではありませんでした」
「七分も迷いました」
「自力で戻れました」
沙耶が淡々と言う。
結月は少しだけ黙った。
「……褒めています?」
「はい」
「黒川さんが?」
「失礼ですね」
「だって、昨日から減点ばかりでしたから」
「できたことまで否定はしません」
沙耶は画面をスクロールする。
「書店での買い物は問題なし。カフェでの注文も、少し間がありましたが問題なし。ただし」
「まだあるのですね」
「店内で周囲を三回、かなり分かりやすく見回していました」
「警護員を探していました」
「それが目立ちます」
「すみません」
「それと、電車内で他人の会話をかなり真剣に聞いていました」
結月の顔が赤くなる。
「そこまで見ていたのですか」
「見ています」
「聞こえてはいなかったでしょう」
「内容までは」
「それならよかったです」
「何の話でした?」
「言いません」
「恋愛話ですか」
「どうして分かるのです」
「顔に出ています」
結月は言葉を失った。
「黒川さん」
「はい」
「警護担当者というのは、人の顔を読む訓練もするのですか」
「結衣さんが分かりやすいだけです」
「最近、皆さんそれを言います」
「事実ですので」
結月は納得できなかった。
二人で歩き始める。
少し先に、大学の建物が見えた。
進学予定の大学とは違う。
それでも、多くの学生が出入りしている。
結月は歩きながら、その光景を眺めた。
「黒川さん」
「はい」
「少しだけ、分かった気がします」
「何がです?」
「一人で出かけるということが」
沙耶が結月を見る。
「思っていたより、楽ではありませんでした」
「でしょうね」
「でも、楽しかったです」
「そうですか」
「道を間違えたのも、今なら少し面白いです」
「本番で遅刻したら笑えません」
「もう少し余韻を楽しませてください」
「失礼しました」
沙耶はほんの少し笑った。
「それから」
結月は続ける。
「一人でいるのに、本当には一人ではないのですね」
沙耶の表情がわずかに変わった。
「どういう意味ですか」
「困ったら駅員さんが教えてくださった。店員さんも普通に接してくださった。知らない人がたくさんいるのに、必要なときには誰かに聞ける。そういうことです」
「……それは、大学でも同じかもしれませんね」
「そうでしょうか」
「全部一人でできる必要はありません」
沙耶が前を見たまま言う。
「普通の人だって、誰かに聞きます。友達に頼ります。家族に相談します。一人で出かけることと、一人で全部背負うことは別です」
結月は足を少し緩めた。
その言葉は、不意打ちだった。
「黒川さんは、ときどきとても良いことをおっしゃいますね」
「ときどきは余計です」
「毎回ではありませんので」
「殿下」
「結衣です」
「今は訓練終了ですので、殿下でも構いません」
「急に厳しくなりましたね」
「元からです」
二人は顔を見合わせた。
結月が笑う。
沙耶も、今度は隠さず少し笑った。
◇
宮邸へ戻ったあと、結月にはもう一つ仕事が待っていた。
今日の訓練結果を父へ報告することである。
書斎へ入ると、雅久は机の上の資料へ目を通していた。
「戻りました」
「聞いている」
嫌な予感がした。
「黒川さんからですか」
「ああ」
「早いですね」
「警護報告だからな」
雅久は資料をめくる。
「乗り換えで道を間違えたそうだな」
「七分だけです」
「九分遅れたと書いてある」
「ホームまで戻る時間を含めればそうなります」
「他人の恋愛話を盗み聞きしたとも」
「なぜそこまで報告されているのですか!」
思わず声が大きくなった。
雅久が顔を上げた。
「本当に恋愛話だったのか」
しまった。
「違います」
「今、自分で認めただろう」
「聞こえてしまっただけです」
「どういう内容だった」
「お父様には関係ありません」
「なぜ怒る」
「怒っていません」
「顔が赤いぞ」
「車内が暑かったのです」
「報告書には快適な室温と」
「報告書が細かすぎます!」
書斎の空気が少し緩んだ。
雅久は口元を押さえた。
笑っている。
「お父様」
「いや、すまない」
「今、笑いましたね」
「少しな」
「ひどいです」
「だが」
父の声が落ち着く。
「一人で行動する訓練は、思ったより問題なかったそうだ」
結月の表情が変わる。
「黒川さんがそう言ったのですか」
「少なくとも、現時点で致命的な問題はないと」
胸が高鳴った。
「では」
「まだ大学への通学を正式に認めたわけではない」
「お父様」
「分かっている。最後まで聞け」
雅久は資料を閉じた。
「大学側との協議も進んでいる。条件付きになるが、先方も協力する意向だ」
「本当ですか」
「ただし、学内の一部責任者には事情を伝える」
「はい」
「警護もつける。自由にどこへでも行けるわけではない」
「分かっています」
「そして、何か問題が起きた場合は——」
「大学生活を見直す可能性がある」
「覚えているならいい」
雅久はしばらく娘を見た。
結月は椅子の上で背筋を伸ばして待った。
「入学式前に、大学構内の最終確認をする」
「はい」
「その結果に問題がなければ」
結月は息を止めた。
「春から、水瀬結衣として通学することを認める」
数秒。
本当に、何も言えなかった。
「……結月?」
「はい」
「聞いていたか」
「聞いていました」
「なら返事を」
「はい」
それだけ言って。
結月は口元を押さえた。
笑ってしまう。
どうしても。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。
「お父様。本当に、ありがとうございます」
「まだ始まってもいないぞ」
「はい」
「想像しているより大変かもしれない」
「はい」
「友人ができない可能性だってある」
「それでもいいです」
「恋愛など」
「お父様」
結月が即座に止めた。
「そこまで私は申し上げておりません」
「そうか?」
「そうです」
父の目が少し疑わしい。
「とにかく」
雅久は話を戻した。
「おまえが望んだことだ。途中で簡単に投げ出すな」
結月は父を見る。
「はい」
今度は、はっきり答えた。
◇
夜。
自室へ戻った結月は、紺色のノートを開いた。
『大学生活で絶対にやりたい青春イベント百選』
一ページ目。
『零、諦めずに大学へ行く』
その横へ。
今度こそ、大きな丸をつけた。
「……できました」
まだ入学していない。
けれど。
ここまで来た。
結月はしばらく丸印を眺めていた。
そのあと、次の項目へ視線を移す。
『一、大学で友達を作る』
その下。
『二、友達と学食で昼食を食べる』
そして、ずっと先。
『七十九、好きな人から「会いたい」と言われる』
結月はそこだけ素早くページを閉じた。
「まだ早いです」
誰も聞いていない。
それでも言った。
そして数日後。
結月は初めて、水瀬結衣として進学予定の大学へ足を踏み入れることになる。
桜の蕾が膨らみ始めた春のキャンパス。
大勢の新入生。
誰も自分を知らない場所。
彼女が長い間夢見ていた、青春の入口。
ただし。
漫画やライトノベルの知識を真に受けすぎた結月は、その大学へ向かう途中、一つだけ余計な期待を抱いてしまう。
入学初日。
曲がり角。
偶然ぶつかる男女。
運命の出会い。
そんなものが現実にあるはずはない。
普通ならそう思う。
けれど数日後。
結月は本当に曲がり角で、一人の青年とぶつかることになる。
問題は、その青年がパンをくわえていないことと。
結月自身も可愛らしく尻もちをつくどころか。
青年が持っていたコーヒーを、見事なまでに自分の服へぶちまけてしまうことだった。
第35話 手をつなぐ理由がありません 結月は、自分が人混みを苦手としているつもりはなかった。 公務では大勢の人の前に立つこともあるし、式典や行事で人に囲まれることにも慣れている。警備に囲まれて移動する場面も多かったから、人の数そのものに圧倒されることはない。 ただし、それと「休日の駅で、一般の利用客に混ざって自分の足で歩くこと」は、まったく別の技術らしい。「水瀬、こっち」「分かっています」「いや、そっち行くと反対ホーム」「分かっていました」「今看板見たよな?」「確認しただけです」「はいはい」 土曜日の午後。 二人は、前回約束していた書店へ再び足を運んだ帰りだった。 今回は互いに選んだ本の感想を少し話し、さらに別の棚を見て回ったせいで、予定より長く滞在してしまった。結月には午後の予定がなかったため問題はないが、駅へ戻った頃にはちょうど人の多い時間帯になっている。 家族連れ。 買い物客。 学生。 観光客。 改札前を行き交う人の流れは絶えず、ほんの少し気を抜けば別の方向へ押し流されそうになる。「高瀬さん、皆さん歩くのが速くありませんか」「水瀬が遅いんだよ」「私は普通です」「さっきから三回立ち止まって看板見てる」「間違えないためです」「それで後ろ詰まってる」「……では、もう少し速く歩きます」「無理しなくていいって。俺についてくれば」「その言い方だと子供扱いされているように聞こえます」「じゃあ迷子にならないでください、お嬢様」「やはり子供扱いではあり
第34話 高瀬さんが選んだ一冊 誰か一人のために本を選ぶという行為が、これほど難しいものだとは思わなかった。 結月は日曜日の夜、自室の本棚の前に立ったまま、もう二十分近く同じ場所を行ったり来たりしていた。自分が読む本を選ぶのであれば、ここまで迷うことはない。表紙を見て気になったものを手に取ることもあれば、好きな作家の新刊を迷わず買うこともあるし、書評や友人の感想を参考にすることもある。 けれど、今回の条件はまったく違った。 高瀬湊に読んでもらいたい一冊。 そう考えた途端、目の前に並んでいる本がどれも決め手を欠いているように見えてしまう。「恋愛小説は……少し露骨でしょうか」 棚から一冊取り出した結月は、裏表紙のあらすじを読んでから、すぐに元へ戻した。 身分の違う男女が惹かれ合い、周囲の反対を受けながら関係を深めていく物語だった。普段なら好きな題材であるし、実際に何度も読み返している。 しかし、今これを湊に渡す勇気はない。 自分たちの状況を知っているのは結月だけだとしても、「なぜこの本を俺に?」と聞かれた瞬間にまともな顔を保てる自信がなかった。 次に手にしたのは、秘密を抱えた女性が身近な男性に少しずつ心を開いていく小説だった。「これはもっと駄目です」 即座に戻した。 秘密、偽名、言えない事情。 今の自分には近すぎる。 まるで、自分から高瀬湊へ「ここに答えがあります」と赤い線を引いて渡すようなものではないか。 結月は腕を組み、改めて本棚を見渡した。 そもそも、なぜ自分はここまで悩んでいるのだろう。 前の話で湊と交わしたのは、「次に出かけるなら、お互いに一冊ずつ本を選ぼう」という軽い約束だった。学校の課題でもなければ、贈答品の選定でもない。もっと気楽に考えてよいはずなのだ。
第33話 それでも二人でいると楽しいのです 初デートではなかった。 少なくとも、高瀬湊本人はそう言った。 もっと正確に言えば、「最初からデートだと決めて誘ったわけではない」という話であって、結月が完全な勘違いをしていたわけでもなかったらしい。しかも最後には、「次にまた二人で出かけるなら、最初からデートだと言って誘うかもしれない」とまで言われた。 そのため、昨夜から結月の中では評価が定まらないままだった。 失敗だったのかと言われれば、まったくそんなことはない。 楽しかった。 むしろ、かなり楽しかった。 書店へ行き、昼食を食べ、雑貨を見ただけである。恋愛小説なら一章分を使うほどの出来事ではないかもしれない。それでも自分にとっては、帰宅したあとまで何度も思い返してしまうくらいには大切な一日になっていた。「……結局、デートかどうかにこだわりすぎたのでしょうか」 月曜日の朝、結月は紺色のノートを閉じながら独り言を漏らした。 昨夜最後に書いた文章が、やけに素直だった。『デートかどうかより、高瀬さんと二人で過ごすこと自体が楽しい』『なら、次も行きたい』 読み返すと、少し恥ずかしい。 けれど消したいとは思わなかった。 その二行だけは、どう考えても本当だったからだ。 ◇ 大学へ着くと、美月はいつものように先に来ていた。「おはよう、結衣ちゃん。で、どうだった?」 挨拶の直後である。「何がでしょう」「土曜日」「もう少し世間話を挟んでもよいのではありませんか」「昨日の日曜日、聞くの我慢したんだから褒めてよ。メッセージしようか三回くらい迷ったんだよ」「
第32話 初デートではない、と高瀬さんは言いました 「デートではない」と言われたあとに、その相手と二人きりで昼食へ向かう時間ほど、扱いに困るものはないのかもしれない。 結月は、その事実を身をもって学んでいた。 ほんの数分前まで、自分は休日の街を高瀬湊と並んで歩いているだけで楽しかった。大型書店では好きな本について話し、くだらないことで言い合い、いつもの大学とは少し違う服装を褒めてもらった。それだけで胸の奥がふわふわと落ち着かなくなり、もしかすると今日は、自分がこれまで漫画やライトノベルの中で何度も見てきた「初デート」に当たるのではないかと考えていた。 だから本人へ確認した。 父の「なぜ本人に確認しない」という、恋愛にはまるで似合わないほど合理的な助言を採用した結果だった。 そして返ってきたのが、『別に、そういうつもりじゃ』 である。「……」「……」 二人の間に、先ほどまでなかった沈黙が生まれていた。 湊は少し前を歩いている。 結月は半歩遅れて、その隣を歩いていた。 別に怒ってはいない。 少なくとも、怒る資格はない。 勝手にデートかもしれないと思ったのは自分だ。湊は最初から「本を見に行こう」としか言っていないし、「デートをしよう」と誘ったわけではない。 それなのに。 胸の奥には、薄い紙で指先を切ったときのような、小さいくせに無視しづらい痛みが残っていた。「水瀬」「はい」「さっきから静かじゃない?」「そうでしょうか」「そうだろ」「本を見たので少し疲れただけです」「一時間前まで、あのフロア全部見そうな勢いだったの
第31話 これはデートなのでしょうか 水瀬結衣として大学へ通い始めてから、結月は数え切れないほど「初めて」を経験してきた。 初めて友人と学食で食事をした。 初めて大学生の男性と二人で昼食を取った。 初めてアルバイトをした。 初めて自分で得たお金で誰かに飲み物を奢った。 初めてプリクラを撮った。 初めて相合傘をした。 そのたびに緊張し、失敗し、思っていたものと違うと知り、それでも最後には「経験してよかった」と思ってきた。 だから今回も。 ただの新しい経験。 そう考えればよい。 はずだった。「……こちらでしょうか」 土曜日の朝。 結月は自室の姿見の前で、三着目のワンピースを身体へ当てていた。「いえ」 数秒考え。「少し気合いが入りすぎているような」 ベッドの上。 一着目。 二着目。 椅子の背。 候補から外したカーディガン。 机の上。 アクセサリーが二組。 普段の大学生活では考えられないほど、部屋が服で散らかっている。「……こちらのほうが自然でしょうか」 四着目。 薄い水色のブラウス。 白に近いベージュのロングスカート。「でも、大学でいつも着ているものとあまり変わりませんね」 それが良いのか。 悪いのか。 分からない。 結月はスマートフォンを見る。 昨夜。
第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました 翌朝、結月は目を覚ますと、昨夜閉じたはずの紺色のノートをもう一度机の上へ置いた。 昨日、自分で書いた文章が気になって仕方がなかったからである。『高瀬さんも「分からない」』『私も「分からない」』『でも、二人とも相手が他の誰かと付き合うのは少し嫌』 そこまで書いてしまった。 しかも最後には、自分自身で「かなり分かりやすいのでは」とまで考えた。 朝になれば冷静になれるかもしれないと思ったのだが、残念ながら恋愛感情というものは一晩眠った程度では都合よく整理されてくれないらしい。「では、最初から確認しましょう」 誰に言うでもなく、結月は椅子へ座った。 机の上には、紺色のノート。 窓から差し込む朝の光。 そして、これから自分自身へ行う予定の、あまりにも個人的な検証。 公務なら資料の確認は得意だった。事実を並べ、状況を整理し、必要な結論を導く。曖昧な表現を避け、感情と事実を分けて考える。 ならば恋愛も同じように分析できるのではないか。 結月はそう考えた。 この時点で既に少し間違っていた。 ◇ 最初の記録。『昨日ぶつかった男。かなり失礼』 結月はその文章を見て、少し笑った。「これは間違っていませんね」 今でも失礼である。 そこは変わっていない。 さらにその下。『笑った顔は少しだけ悪くない』 結月は眉を寄せた。「……これは」 かなり初期。 まだ知り合って間もない頃。







